"みんなで繋ぐかぼちゃカップ"

代表挨拶

 今年こそ、コロナ前、本来のかぼちゃカップを取り戻したい!その思いから、今年度の第39回日向かぼちゃカップ実行委員長に立候補しました。

 まだまだ気球経験も浅い私にはなりますが、私は数ある大会の中でもこのかぼちゃカップが一番のお気に入りの大会です。'気球'をきっかけに'全国'から集結し、'山越えフライト'に挑戦、そして一緒に'年越し'を行うこの大会は他の大会にはない魅力があると感じています。この大会の運営に携わることが出来ていることが誇らしく思います。

 さて、この大会も第39回ということで、先輩たちがこの大会をどんな思いで繋いできたのか、部室に眠っているほこりのかぶった資料を見つけました。近年では、コロナの影響で「きじや」での忘年会、ぎゅうぎゅうの公民館宿泊を中止しました。またもっと前には、主催を出来る人はいるのか、そんな状況になった歴史もあるそうです。

 私自身、コロナ前のかぼちゃカップには参加したことがありませんが、コロナ前のかぼちゃを楽しみにしてくださっている参加者も多く、この素敵な伝統は引き継ぎ、学生の参加者もより多くなり、若者らしさも融合した、'かぼちゃカップ'を'みんな'で節目の第40回大会に繋げたらと思います。


第 39 回日向かぼちゃカップ実行委員長 中野雄生

日向かぼちゃという気球があった・・・


「空飛ぶゾウキン」といわれ

「舞い上がるクサレ白菜」と笑われ

晩年はその体に皮膚のたるみも目立ち

手でその皮膚をのばそうとすると

たわいもなく裂けてしまうほどだった気球がかつてあった。

その気球の名は「日向かぼちゃ」

彼女は主に都城の空をその活躍の場としながら

都城の人々に大空への浪漫と気球への憧れを与え続けた。

彼女の吐き出す息で人々は目覚め

仔牛は怯えて母のもとへと走った。

彼女が、彼女を操る御主人様に逆らえずイモ畑を踏み荒らしたときも

人々は温かく寛大だった。

そんな人々に彼女は一本のイモ焼酎をそっと置いた。

こうして都城の人々は

その緑の体に白色だった大胆な十字のベルトの彼女の姿を

深く深く脳裏に刻んでいった。


  • ・・・・・・・


彼女は永い眠りについていた。

彼女をつくってくれた人はもう遠くへ行ってしまった。

楽しかった愛と青春の日々を懐かしく思い出していたのだろうか。

彼女が活躍していた初めの頃は

九州でも彼女をいれて二、三機の気球しかなかった。

今では仲間もかなり増えた。

かつて彼女と彼女の父が飛んだことしかなかった都城の空を

いろんな気球がフライトするようになった。

そしてそれらは一様に彼女より派手で都会的だった。

そんな九州のバルーニスト達が集まって行っていた気球大会があった。

晩年、彼女も参加したことがある。

そして彼女が引退した1985年

彼女の名を永く後世に残そうと

その大会に「日向かぼちゃカップ」という

名前がつけられた。

第30回記念大会公式パンフレットより


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